基礎練について思うこと。
最近まったくブログとかいうものに触ってなかったので書きます。まぁ、ツイッターでは書き足りないことを書き留めるだけの雑記帳なんで、書くこと無いなら無いで別にいいんですけど。
本題。
僕はダンスサークルに所属している。ダンス歴は11〜12年くらい。とにかく結構やってる。まぁでも週1回2時間くらいしかやってなかったから、時間的にはそうでもない。
僕はお世辞にも運動が得意な人間とは言えないが(中学の体育の評定は2だ。五段階評価で)流石に10年もやってればそれなりには出来るようになった。逆に言えば、理論上、僕より運動できる奴は全員僕レベルには到達するということだ。凄い。みんなダンス始めようってなってこない?だってダンスとか簡単でしょ、手足をお手本通りに動かすだけだし。
僕がダンスを始めた頃は(小3くらいだったかな?)ダンスなんて全く人気のないスポーツだったと記憶しているけれど、いつの間にかそれなりに人権を得ていたらしい。所属サークルの新入生争奪戦も奮闘していた。友達にもダンスが好きだ、という人間は結構いる。嬉しいことだ。(他の部活の方が優先されるからサークルには入ってくれていない、残念だ)アイドルとかエグザイルのダンスをコピーするという文化が、根付いているのかな、と感じる。
はい、ここまでが前置き。
さて、スポーツにおいて基礎練というのは重要な地位を占めると思うのだけど(僕は前述の通りスポーツが苦手なので憶測ではある。もし違っていたら、なんとも恥ずかしい話だ)ダンスもその例外ではない。自然体で--つまり余計な部分は脱力しつつ、必要な箇所に必要なだけの力を込めて--動作を行うことが要求される。これが結構難しい。普段の生活では間違いなく使われない動きを、呼吸をするように、歩行をするようにしなければならないのだから。半ば無意識的に、ともいえる。自然すぎて、自分がどうやってその動作をしているのかわからない所までくれば身についたことになるのだろう。読者諸君のなかで、呼吸や歩行するときの筋の動き、重心の位置、意識を向ける箇所を把握している人はいるだろうか?僕はしていない。例えばバスケ部員も、きっとわざわざ手指や足捌きを意識して普段ドリブルしないんじゃあないだろうか。知らないけど。
バスケにおけるドリブル、野球におけるキャッチボールが、きっとダンスにおいてもあるはずだ。しかし、コピーダンスの文化では、それは重視されていない(のではないか、と思う)。なぜなら「ダンスはお手本通りに手足を動かせばそれなりに出来てみえるから」だ。残念な話だと思う。本質的には「手足の動かし方」を学ぶところを、「手足の動き」を学んでいるのだから。基礎練は地味だ。苦痛でさえあるかもしれない。同じ動きの繰り返しで達成感はないし、上手くなってる実感を伴わない。それになにより、教えてくれる教材が少ない。これは需要と供給の問題かもしれない。踊る側が、基礎の存在を認識していないのかもしれない。どれにしろ残念なことに変わりはないが。
基礎が出来ていないと、どうしても動きが固くなる。体の動かし方を知らないのに、体を動かそうとしているからだ。それは自然体ではない。だから「本物とどこか違う」という感覚のまま動き続けることになる。
再三再四言っているが、これは他のスポーツにも(もしかしたらスポーツ以外にも)当て嵌まると思って記述している。なるべく一般化して書いたつもりだ。
交通時間を利用して書いただけの、推敲もしていない駄文を読んでくれたありがとう。読者諸氏の、基礎に対する考えの一助になることを願う。
疑似科学と人工と天然
でも、ビタミンが破壊された野菜は、分子レベルで破壊が起こっているので、もう野菜ではなく、自然界に存在しない異物となってしまうのです。自然界に存在しない異物を人間は消化・吸収・排泄することはできません。これはあるネット上の文章からの引用ですが、「自然界に存在するビタミン」に対して「人の手によって壊された人工のビタミン誘導体(異物)」という表現がなされています。
偉大なるインドの話
限界
俺も中高生限定SNSで大人気になりたかった……
塾講師についての暫定的感想
私は塾講師という形態のアルバイトに従業している。
私の勤める塾は、控えめに言って名の知れていない--つまりは安くて質の悪い--ところである。
客層は主に高校受験を控えた中学3年生。親はそろそろと焦りだす夏休み少し前くらいに手頃なウチに適当に子供を放り込むようだ。
生徒は学校の定期テストもままならない者が多く、目標が「赤点を取らないこと」に置かれている場合も多い。通分・約分が出来なかったり分配法則がわからなかったり、と言えば大体の所は伝わるかと思う。(というかココを間違わない生徒の方が少ないので辟易している)
私自身は高校受験を経験してはいないが、あまりにも将来に対して楽観視しすぎではないか、と思わざるを得ない。宿題をやって来ないならまだしも平気で無断欠席をするし、昨日教えた内容を今日は覚えてもいないし、教わったという事実すら覚えてもいない。メタ記憶って人間の特技ですよね?
幸いにも、学生としての私の身の回りには私と同等の文化レベルで育った人間ばかりで、私はその世界をいたって普通の物だと思っていた。
いや、よく考えたら「羽生善治≡羽生結弦(mod羽生)」とか言って遊んでる人類が至って普通だとしたらそれそれでちょっと……と思わないでもないが。
閑話休題、要するに私は人間を過大評価していた。出来ない人間は"やっていない"だけだし、根本の能力として人間はそれほど人間に劣る物ではない、と思っていた。偏差値60の人間がいれば偏差値40の人間が同数いることは知っていたが、たかが20の差なんてカナブンとコガネムシの差くらいなものだと思っていた。自身の非才を棚に上げて。
私が体育の評定で2を取るように(実話です)、人類は約分が出来ず、私が美術の評定で2を取るように(実話です)、人類は周期表が解らず、私が音楽の評定で2を取るように(実話です)、人類は問題文の意図を掴めないのだ、と。
そう考えると、割とすんなりと納得できた。
そもそも、学校の定期テストがよくないのではないか。定期テストは非常に狭い範囲だけから出題され、テスト直前に幾つかのパターンを叩き込めば最悪は回避できる。我々は目先の問題解決のために止むを得ずその方法をとり、そうして、彼らは付け焼き刃の知識を一瞬で失う。実際はまったく伸びていないのに、点数が取れてしまい、実力を錯覚させてしまう。塾の効果を、錯覚させてしまう。
そんな、塾講師というアルバイトは(有名な予備校を除く)、実質時給は安いが肉体労働はなく、サービス業なのに何故か顧客より高い立場にいる不可思議業界である。クレームは雇用者が取ってくれるので被用者である我々はスーパー楽。一応生徒の成績に責任ある立場ではあるが、そもそも、私は人間の努力を信用していないので、僕の努力も、生徒の努力も実るだなんてまったく思ってはいないからプレッシャーも感じない。
何度も何度も同じ間違いを訂正したり、四則演算の順序を教えなければならなかったりする時は流石に苛立ちもするが、概ねストレスレスな職だと感じる。
つまるところ、塾講師というアルバイトは、楽である。塾講師最高。人に物を教えられる人間に産んでくれた両親に圧倒的感謝😤😤
とかいって。